寺下観音・潮山神社の歴史/The History of Terashita
寺下観音・潮山神社は、神亀元年(724年)から5年をかけて、大僧正・行基によって創建された海潮山應物寺がもととなっています。
ここでは應物寺から寺下観音・潮山神社への歴史の一部をひもといてみます。
寺下観音・潮山神社は、神亀元年(724年)から5年をかけて、大僧正・行基によって創建された海潮山應物寺がもととなっています。
ここでは應物寺から寺下観音・潮山神社への歴史の一部をひもといてみます。
寺下観音堂に経津主命を併せ祀った文治2年(1186年)という年は、歴史的にどういう年代であったのだろうか。また、なぜ藤原氏の氏神である香取神宮の御祭神・経津主命を祀ったのであろうか。
これは推測であるが、「桑原氏」の出自と歴史的背景があるのではないだろうか。
「奥南諸家聞老遺言録」では奈良時代の右大臣・藤原豊成との関係が述べられているが、その関係は現在の桑原氏の先祖と言われる「桑原左衛門入道」が奉じた法然上人の像が當麻寺(奈良県葛城市)の奥院に納められていて、ここが藤原豊成の娘・中将姫に由来する寺であったこと、そして源平合戦により焼失した東大寺(奈良県奈良市)を再建するために東大寺大勧進職となった大僧正・重源から、最初に勧進を依頼されたのは法然上人だったこと、その法然上人が西行法師に依頼し、西行法師は文治2年(1186年)に平泉を訪問していることから、桑原氏由来の誰かが平泉訪問に同行したことが推測される(寺下観音に経津主命が併せ祀られたのは、この同年)。
奥州藤原氏滅亡の際に討ち死にしたとされる源義経が実は生き延びて、北へ逃れたとされる義経北行伝説の中で、桑原家に残る弁慶の書と伝えられている「大般若経」の1巻の存在は、そうした縁に繋がるのではないか。
こうしたことは、あくまで桑原一夫氏の推測ではあるが、歴史の一致を見ることも確かなことである。
寺下観音のもととなった應物寺を創建したのは大僧正・行基(天智天皇7年(668年)~天平21年(749年))と伝えられています。
行基は飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した僧で、東大寺の大仏像(国宝・奈良大仏)造営の勧進にも起用され、天平17年(745年)に日本では初めて仏教界の最高位である「大僧正」の位を朝廷より贈られています。
多数の寺院の開基(寺院の創始にあたって必要な支援を与えた者のこと)になっていて、続日本紀に記述があるもので40余、興融寺(奈良県生駒市)の顕彰碑(鎌倉時代中期)に刻まれている記録では49の寺院の開基が行基であるとされています。そのほかにも青森県から宮崎県まで約600もの寺院の開基が行基であると伝えられていて、その中の一つが寺下の應物寺と言うことになります。
寺下観音堂に現在も収められている観音像も、行基の作と伝えられています。
行基の死後、遺骨を納めた瓶に弟子が刻んだ「大僧正舎利瓶記」によると、行基は応神天皇15年(404年?)に日本に帰化した百済国の王子・王仁(生没年不詳)の子孫とされています。桑原も応神天皇14年(403年?)に百済から帰化した弓月君の一族に繋がる姓のため、その縁で應物寺の開基も行基が務めたのかも知れません。
今寺下と云處、此處一圓に桑原郷と云。
右大臣橘豊成弟仲滿か爲に讒せられ、日向國に降りて三子あり、乙繩の裔族奥州へ下り桑原左衛門入道と稱す。智恩院十二世誓阿上人に相從ふて入道す。
廢帝(※淳仁天皇)の天平寳字八年江州(※近江国)に下り、後、奥州八戸階上郡近居に潜居す。故に桑原郷と云。
後ち海潮山應物寺、階上山靑龍寺建築有てより寺下と稱す。
奥南諸家聞老遺言録に、寺下観音の管理人である桑原氏の出自が書かれています。
これによると、天平感宝元年(749年)から天平勝宝9年(757年)に右大臣を務めた藤原(橘)豊成の三男・藤原乙繩の裔族(子孫のこと)で、奥州に下り、階上郡に潜み住んだのが桑原氏の祖と言うことになります。
天平宝字8年(764年)は、孝謙上皇・道鏡と、淳仁天皇・藤原仲麻呂の対立が深まり、平城京を脱出した藤原仲麻呂は近江国で捕らえられ、斬首された「藤原仲麻呂の乱」が起きています。その乱ののち、奥州に下ったということなのでしょう。
奥州に下った桑原氏の子孫となる桑原左衛門入道は、この遺言録によれば、知恩院十二世を務めた誓阿普観上人に従って、浄土宗の開祖である法然上人の門下となっています。その後、法然上人行状絵図をはじめとする文献にて、桑原左衛門入道は法然上人の姿を写し取った木像をつくり、その像は現在、奈良県葛城市の當麻寺奥院の本尊(重要文化財)となっています。
「誓阿上人に相従いて」の部分については、時代が合わないので(誓阿上人が生まれたのは法然上人が亡くなってから)、誤って伝えられたもので、桑原左衛門入道が従ったのは誓阿上人ではなく、毛利入道西阿ではないかと推測されます(詳しくは寺下観音管理人・桑原家のページで紹介)。誓阿上人は、桑原左衛門入道が作ったとされる法然上人像を知恩院から當麻寺奥院(奈良県葛城市)に移しているので、そこから混同されたのでしょう。
文治2年(1186年)寺下観音堂に経津主命を併せ祀ったことから、寺下は神仏混淆の聖地となりました。藤原氏の氏神である経津主命を祀ったのは、西行法師の奥州訪問と無関係ではないと考えられます。
治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦(治承4年(1180年)~元暦2年(1185年))の南都焼討(治承4年(1180年))によって東大寺(奈良県奈良市)は大仏殿を含め、多くの堂塔が失われました。翌、治承5年(1181年)には東大寺再建へ向けた動きが具体化し、法然上人の推挙や後白河法皇の命で俊乗房重源が再建実務の総責任者である大勧進職に就きました。重源上人は奈良時代に東大寺の大仏が作られた際の大僧正・行基に倣い、自ら畿内各地を勧進して多くの人々から喜捨を受けたほか、多くの僧侶が地方に赴き、同様に喜捨を受けたようです。
そのなかの一人として、西行法師が平泉まで訪れたことが記録されています。西行法師は20代後半?(正確な時期は不明)からの3年間、諸国行脚で陸奥を訪れたこともあり、奥州藤原氏の藤原秀衡とも和歌の友でした。
69歳となった西行法師が東大寺勧進のために奥州に訪れたのは文治2年(1186年)と、寺下観音堂に経津主命が祀られたのと同年であり、土地勘のある者として桑原氏に連なる者が平泉まで西行法師に同行し、その後、寺下まで足を伸ばして経津主命を祀ったとすれば繋がります。