寺下の不思議 /The Mystery of Terashita
寺下には未解明の謎がいくつかあります。ここでは、その謎に少し迫ってみましょう。
寺下には未解明の謎がいくつかあります。ここでは、その謎に少し迫ってみましょう。
寺下の南、青森県と岩手県の県境には築堤があります。この築堤は、階上岳の山頂まで続いています。
かつて青森県東部から岩手県北部にかけては糠部郡と呼ばれた地域です。糠部郡は「九ヵ部四門の制」によって、一から九までの「戸」に分けられ、その四方を東西南北の「門」と呼びました。また、「戸」は牧場の意味であるとも言われ、蝦夷征伐の拠点に設けた「柵の戸」が語源とも言われています。
この県境の築堤は、八戸と九戸の境の柵跡だったのかも知れません。
現在の寺下観音は、奈良時代の神亀元年(724年)から5年をかけて、寺下の地に創建された應物寺が基となっています。
鎌倉時代の仁治3年(1242年)に落雷を原因とする山火事で焼失しましたが、寛元4年(1246年)に僧・江山によって再建されます。江山はそのことを「應物寺廃頽の記」として書き残しましたが、應物寺廃頽の記は江戸時代の正徳2年(1712年)に僧・津要玄梁によって再発見されるまで、寺下観音の脇士である毘沙門天像の胎内に隠されていました。
このように記録にも残り、「應物寺」の扁額も現存しているものの、現在では應物寺の建物群は残っておらず、寺下のどこにあったのかは不明となっています。
津要玄梁和尚の草庵があった場所はわかっていて、そのすぐ近くに津要和尚のお墓もあります。また、そこから北に坂を登ると、津要和尚によって作られた五重塔がありました(大正2年の暴風で倒壊し、現在は跡地のみ)。
当時の寺下の仏教施設の中心はこの津要屋敷周辺だったと考えられ、地形を見ると津要和尚のお墓の隣に平地もあり、このあたりが應物寺の建物があったところではないかと推測されます。
潮山神社の前には盛り上がった地形があり、この部分は周辺の地形と違和感があります。周りには花崗岩が露出していて、潮山神社の前には八幡大菩薩の石碑があります。
八幡大菩薩は八幡神、誉田別命とも呼ばれ、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神、武神として崇敬された神のことです。
「奥南諸家聞老遺言録」によると、奈良時代に右大臣を務めた藤原豊成の三男、藤原乙繩(生年不詳~天応元年(781年))の子孫で奥州八戸階上郡に下ったのが、現在の寺下観音管理人・桑原氏の祖と伝えられています。
もしかしたら、ここは古代の権力者の墓陵なのかも知れません。