蛇口伴蔵の水利事業 /Water resource project of Hebiguchi Banzo
蛇口伴蔵胤年(文化7年(1810年)~慶応2年(1866年))は、八戸地域の水利事業に尽力し、私財をつぎ込んで八戸市糠塚大杉平と階上町蒼前平に水路を引きましたが、農地開発には繋がらず失敗に終わりました。
しかしその夢は先見性の非常に高いもので、平成15年(2003年)に完成した世増ダムによって実現することとなります。
蛇口伴蔵胤年(文化7年(1810年)~慶応2年(1866年))は、八戸地域の水利事業に尽力し、私財をつぎ込んで八戸市糠塚大杉平と階上町蒼前平に水路を引きましたが、農地開発には繋がらず失敗に終わりました。
しかしその夢は先見性の非常に高いもので、平成15年(2003年)に完成した世増ダムによって実現することとなります。
蛇口伴蔵は八戸藩士である葉山治右衛門珍郷の次男として生まれました。幼名を与八郎と言いましたが、幼少時には非常に身体が弱く、初めて歩いたのが4歳になってからだったそうです。
14歳で父を亡くした後、18歳で兄・綱次郎の紹介により、九戸郡蛇口村(現在の岩手県軽米町蛇口)在住で、軽米代官をを務める蛇口家の娘婿として迎えられ、その際に実名も胤年と改めました。のちに家督を譲り受け、伴蔵を名乗ることになりますが、これは蛇口家の先代からの襲名です。
伴蔵は幼少期から読書に親しみ、蛇口家に入ってからも、学問で名を上げるべく、勉学に励みました。
文政13年(1830年)、21歳で江戸勤番を命じられ、職務のかたわら幕府の儒者、佐藤一斎の門弟となり、さらに八戸藩の木崎流砲術師範の立花文助のもとて易学を学びました。
当時の八戸藩は連年の凶作によって藩財政のやりくりも苦労が続いていて、藩士への給金もまともに出せない有様でした。蛇口家も貧困に喘いでいましたが、立花の訓戒により、得た学問をやがて人の役に立てるために、生活は節約と営利を心がけ、まずは蓄財に専念しました。
20年ほども経つと、蓄えた財産は、水田約30町歩(約300,000平方メートル)、現金3万両(1両=13万円として、39億円)、さらに、そのほかの土地や貸付金もあるという膨大なものとなっていました。
伴蔵はこの財産を使い、かねてより構想していた八戸地域に水運を開き、荒れ地を田畑に造成する水利計画の大事業を行うべく、藩の役職を辞退し、安政4年(1857年)、48歳で隠居します。伴蔵はこの頃から山水と号しています。
蛇口伴蔵の考案した水利計画は、八戸藩の総合開発とも言えるほどの壮大なものでした。
その構想を実行するにあたり、現在の十和田市中心部にあたる三本木原2,500町歩(約25平方キロメートル)の開拓を行っていた盛岡藩の新渡戸十次郎(新渡戸稲造の父)に技術援助と指導を要請し、三本木の視察を行っています。
この三本木原の開拓は、安政2年(1855年)に十次郎の父、新渡戸傳が始めたもので、安政4年(1857年)には十次郎が新田御用掛に就任、奥入瀬川の上流から水を引き、現在の十和田市中心部を流れる稲生川が作られています。その際、開拓資金に窮乏した十次郎に、伴蔵から1000両(1両=13万円として、1億3000万円)が提供されています。
伴蔵が計画した水利事業は5つありました。
蛇口伴蔵の水利事業計画
(画像引用:八戸市史 通史編Ⅱ 近世)
このほかに馬淵川の水を根城のあたりから水車を使って引き揚げ、八戸城(現在の八戸市内丸)の堀を通して湊まで流し、舟による物流を便利にする計画もあったようです。
しかし、新渡戸十次郎の助言により、技術的に無理のある計画を後回しにすることとなり、この中から下洗上水事業と階上岳上水事業の2つを実行に移します。
青森県から岩手県にかけての太平洋岸は、夏になると「やませ」と呼ばれる冷たい風が吹く地域です。それによって、この地域は稲作には適さず、繰り返し冷害・凶作に見舞われ、八戸藩でもたびたび飢饉が発生していました。
この2つの上水計画によって農地が広がれば、こういった飢饉も発生しにくくなり、多くの人々が救われることでしょう。
伴蔵は事業を始めるにあたって、願文額を寺下観音に奉納しています。このほかにも請願文を寺下観音に納めたとされていますが現物は確認できず、蛇口家の子孫がその拓本を保存しています。
下洗上水事業の工事は安政6年(1859年)秋から始まりました。
その頃、伴蔵は軽い中風(脳梗塞などによる手足のしびれや麻痺、症状が進むと半身不随といった後遺症のこと)に罹っていましたが、早朝から馬に乗り、千人を超える労働者たちを陣頭指揮しました。
万延元年(1860年)には約500メートルの穴堰(トンネル)を含む水路の工事を完了し、頃巻川から水を引き込む起点に「蛇口山水発蒙」と刻まれた石碑が建てられました。「万延元年庚申歳八月上水堰成」と水路の完成年月も刻まれていて、現在も八戸市南郷泥障作の道路脇に置かれています(当初の位置からは移されているようです)。
しかし、実際に水を流してみると、水量がもともと多くない頃巻川を水源としたことや、水路の勾配が少なかったこと、十和田火山の火山灰に由来する水漏れしやすい地質といった理由によって、十分な水が流れませんでした。そのため、大規模な農地開発を行うことはできず、失敗してしまいます。
想定していた農地開発には繋がりませんでしたが、この水はその後の八戸市街地開発において、防火用水として大いに役立つこととなります。
文久元年(1861年)には、階上岳上水事業の工事を開始します。
蒼前平は階上岳の北に広がる大草原で、南部馬の放牧などが行われてきたところです。この地域は石灰岩の厚い岩盤によって、井戸を掘っても水が出ず、農地としての利用は難しいところでした。
この頃、伴蔵は病状の悪化により歩くこともできなくなってしまいましたが、かごに乗って陣頭指揮を続けました。
また、新渡戸十次郎も八戸に現場視察に訪れ、伴蔵に指導や助言を行っています。
元治元年(1864年)、階上岳中腹から蒼前平のほぼ中央部まで、総延長16キロメートルの水路が完成しました。しかし、こちらも十和田火山の火山灰に由来する水漏れしやすい地質であり、勾配を大きくしすぎたために長雨が続くとあちこちで洪水によって決壊し、水路が崩れて埋まってしまいました。
自らの病状悪化や、用意した3万両の資金を使い果たしたことから、伴蔵はここで工事を中止せざるを得ませんでした。
元治元年(1864年)には「蛇口胤年彊不息」と刻まれた石碑を寺下に建てています。
その石碑には「階上岳からの水を蕪島(八戸市鮫町)まで引き、その後、小軽米の玉川(新井田川の上流、雪谷川の支流・小玉川)の水を引く」という夢が刻まれていました。
この石碑は現存が確認されていませんが、その拓本が蛇口家の子孫によって保存されています。
伴蔵は、これほどの大事業は自分一代で完成させることができるものではなく、仮に自分の子孫ではなくても、あとを継いでくれる人が現れることを確信していたものと思われます。
伴蔵は蒼前平の開拓事業が中止された2年後、慶応2年(1866年)に57歳で亡くなりました。
明治28年(1894年)に八戸の名須川光宝、加藤宇兵衛、阿部松助、一戸友徳らによって、伴蔵が作った水路の復旧工事が行われましたが、明治34年(1901年)8月9日に発生した青森県東方沖を震源とした大地震により水路が破損し、翌年には工事が断念されます。
その後、八戸の近藤元太郎が名須川光宝らと協議し、復旧工事を再開。大正2年(1913年)7月に水を引くことに成功しました。
水路開通を報じる大正2年(1913年)7月22日付の新聞では、「蛇口氏逝きてすでに50年、業遂に成る、霊もって瞑すべきなり。」と記事を締めくくっています。
しかし、この農地開発事業も2年ほどで漏水によって失敗に終わってしまいました。
蛇口伴蔵が夢見ていた八戸地域の水利開発構想は1950年代に再浮上し、昭和51年(1976年)に八戸平原総合農地開拓事業として本格的に始まりました。
当初は水稲増産を目的としていましたが、国の農業政策の転換もあり、畑作を中心とした灌漑用水確保と洪水対策として、平成15年(2003年)に八戸市南郷島守の新井田川に世増ダムが完成し、平成16年(2004年)4月から供用開始しています。
このダムは重力式コンクリートダムで、堤高52メートル、堤頂長247メートル。有効貯水容量は3,310万立方メートルで、青森県のダムとしては2番目の貯水能力を持ちます。
八戸平原の受益地1,864ヘクタールに灌漑用水を供給し、八戸圏域7市町村と岩手県九戸郡洋野町に一日あたり103,425立方メートルの水道水を供給しています。また、100年に一度の規模の洪水に対応する防災能力も備えています。
ダム湖は一般からの応募により、青葉湖と名付けられ、青葉湖を見下ろす青葉湖左岸農村公園には、この地域の水利事業の先駆者である蛇口伴蔵の銅像が置かれ、その指先は蒼前平の方角を指し示しています。
2018年の「第22回 図書館を使った調べる学習コンクール(調べコン)」にて、八戸市立吹上小学校4年生(当時)の土橋侑真さんの研究「水の先駆者 蛇口伴奏」が観光庁長官賞を受賞しています。
わかりやすく、非常に良くまとまったものとなっていますので、蛇口伴蔵に興味を持った方は、是非こちらもご覧ください。