青森県三戸郡階上町赤保内寺下8
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「はしかみ」地名考 /"Hashikami" place name considerations

青森県の最東端に位置する三戸郡階上町はしかみちょうは、昭和55年(1980年)に三戸郡階上村を町に改めることで誕生しました。
町政移行前の階上村は、明治22年(1889年)の町村制施行に伴って、田代たしろ村、晴山沢はれやまさわ村、平内ひらない村、鳥谷部とやべ村、金山澤かねやまさわ村、赤保内あかぼない村、道仏どうぶつ村、角柄折つのがらおり村の8村が合併することで誕生しました。村名は岩手県との県境にある階上岳に由来しています。
では、その階上岳は、なぜ「はしかみ」という名なのでしょうか。

陸奥国


多賀城碑(国宝)

保存状態を憂慮した徳川光圀によって覆堂が作られ、現在もその中に収められている

かつて、現在の福島県、宮城県、岩手県、秋田県の一部、青森県の大部分は「陸奥国むつのくに」と呼ばれました。もともとは「道奥みちのおく」と呼ばれ、平安時代までに「陸奥みちのく」、その後は「陸奥むつ」と呼ばれます。

常陸国風土記によると、白雉はくち5年(654年)に足柄峠(静岡・神奈川県境)の東方に常陸国ひたちのくにを初め8国を置いたとされ、その中に道奥が含まれるとされます。この頃の道奥は現在の福島県から宮城県の仙南平野までで、それより北は蝦夷えみしの領域でした。

現在の宮城県多賀城市には、奈良時代から平安時代にかけて、陸奥国府や鎮守府ちんじゅふが置かれ、東北地方の中心地であった多賀城たがじょう多賀柵たかのきがありました。現在の多賀城跡は国の特別史跡となっています。その南門近くにある「多賀城碑(国宝)」には「去蝦夷國界一百廿里」との記述があります。蝦夷との国境から多賀城まで120里の距離ということですが、当時の1里は約533.5メートルと推定されているので、これは約64kmとなり、多賀城から北へ向かうと現在の宮城県栗原市くらいの距離になります。

多賀城が築かれたのは神亀じんき元年(724年)です。
現在の寺下の地に、寺下観音の前身である應物寺が創建されたのが、神亀元年から5年をかけてのことと伝えられているので、同時期ということになります。
当時の東北地方のほとんどは蝦夷の地でした。

宮城県気仙沼市階上地区


気仙沼市階上地区

かつて、宮城県本吉もとよし郡に階上村という村が存在しました。昭和30年(1955年)に大島村、新月村とともに気仙沼市に編入されましたが、現在のJR気仙沼線「陸前階上駅」のあたりで、気仙沼市のほぼ中央に位置します。

この階上村は、明治8年(1875年)の村落統合によって、波路上はじかみ村、長磯んがいそ村、最知さいち村、岩月いわつき村の4村が合併して誕生しましたが、「階上」の名前は、かつてこの地域が「階上郡」と呼ばれていたことに由来します。
なお、この「波路上」はもともと「波止上」であり、誤った字で伝えられたものです。

この階上郡は、続日本紀にも記述があります。
それによると、名取郡以南の14郡は山や海の僻地へきちであり、多賀城からも遠く離れていて、戦のような緊急時には間に合わないため、延暦えんりゃく4年(785年)不慮ふりょに備えて官員かんいん(役人)を置き、防御を固めるために郡に格上げしたとされます。

奥六郡おくろくぐん

征夷大将軍せいいたいしょうぐんとは、蝦夷を征討せいとう(従わないものを武力で鎮圧すること)する官職かんしょくです。
蝦夷の阿弖流為アテルイを捕らえた征夷大将軍・坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろなど、度重なる蝦夷成敗において陸奥の国は北に向かって拡大していきます。

一度の征夷作戦が終わり、新たな領地を得ると、新たな郡が置かれることとなります。その時に6つの郡を一組として置く方法がとられました。次の征夷作戦が始まると、その新たな郡から出軍し、また新たな6郡が置かれると言うように、これを繰り返して領地拡大が行われました。
この新たに置かれた6つの郡を「奥六郡」と呼び、蝦夷成敗が進み、陸奥の国が北に拡大すると共に、奥六郡と呼ばれる場所も北に移動していきます。
奥六郡のうち、北端の郡には「かみ」または「はしかみ」の名を付けて、軍事基地の拠点としたものと考えられています。「はし」は北・北端を表し、「かみ」は行政府・最前線・根拠地こんきょちなどの意味とされます。
「はしかみ」は、「階上」のほかにも「端神」「科上」「波止上」「巴上」と表記されていることもありますが、そのほとんどが同じ意味だと考えられます。

北上する「はしかみ」


各地の「はしかみ」

まず、多賀城が創建(神亀元年(724年))されたのち、延暦えんりゃく4年(785年)にその北方である現在の宮城県気仙沼市のあたりに階上郡を置いて軍事拠点にしました。
延暦21年(802年)、現在の岩手県奥州おうしゅう市の胆沢いさわ城に鎮守府を移し、その際にその北東、現在の岩手県久慈市山根町に端神という部落、端神山という名を残すことになります。
さらに弘仁こうにん2年(811年)、岩手県北東部の閉伊へい、岩手県北西部と青森県東南部の二佐平にさたいの平定が行われ、現在の岩手・青森県境に階上郡が置かれます。

東北地方の征夷開拓は弘仁4年(813年)の頃に終わったとされていますが、階上郡や階上山(階上岳)について記述のある文献などから、当時は岩手県北部から青森県の下北半島北端までの広大な範囲が階上郡だったと考えられます。

天保てんぽう4年(1833年)に盛岡藩士・星川正甫せいほ(文化2年(1805年)~明治13年(1880年))によって書かれた、盛岡城下各所を網羅し、その由来、起源などを集約した「盛岡砂子すなご(全6冊、自筆原本は岩手県立図書館蔵)」では、文治5年(1189年)に南部三郎光行が賜ったとされる糠部ぬかのぶ五郡のことを「階上等数郡」と記述しています。
青森県むつ市大畑おおはた町にある大安寺にあった梵鐘ぼんしょうには「奥州階上郡円祥山大安禅寺」と刻まれていたそうです(太平洋戦争の供出で運び出されたのち所在不明)
慶長けいちょう7年(1602年)創建の八戸市新井田の八幡宮の由来記には「東陸奥州階上郡正于八戸城之東南」と書かれています。

広大となった陸奥国は、明治期に陸奥りくおう国、陸中りくちゅう国、陸前りくぜん国、岩代いわしろ国、磐城いわき国に分割されますが、そのうち陸奥・陸中・陸前の3国を総称した「三陸」は三陸海岸の名前などに残っています。

階上郡から三戸郡、そして階上町へ


原敬氏

のちに初の平民へいみん宰相さいしょう(内閣総理大臣)となる原敬はらたかし(安政3年(1856年)~大正10年(1921年))が私財を投じて編纂へんさんし、明治44年(1911年)に刊行された「南部史要なんぶしよう」という通史があります。南部藩の祖・南部三郎光行から南部家41代・南部利恭としゆきの盛岡藩知事辞職までの700年あまりを記述しものです。

その中では、南部光行がたまわった糠部五郡を、階上、北、津軽、九戸、鹿角かづのと紹介しています。
また、盛岡南部藩4代藩主の南部行信ゆきのぶによって、階上郡の名を三戸郡と改めたことも書かれています。正確な時期は不明ですが、行信の藩政は元禄げんろく5年(1692年)から元禄15年(1702年)までなので、その間のどこかということになります。
これによって、征夷開拓が終了した鎌倉時代以降、階上郡と呼ばれていたこの地域は三戸郡と呼ばれるようになり、階上の名は階上岳にとどめることとなります。

そして、明治22年(1889年)の市町村制施行にあたり、それまでの周辺8村が合併して階上村が誕生し、昭和55年(1980年)には階上町と改められることとなるのです。

青森県の難読地名

青森県には容易に読むことのできない難読地名が多数あります。
例えば、八戸・三戸地域に限っても「田面木たものき(八戸市)」「一日市ひといち(八戸市)」「類家るいけ(八戸市)」「不習ならわず(八戸市)」「五百窪いおくぼ(五戸町)」「耳ヶ吠みみがほい(階上町)」「小舟渡こみなと(階上町)」などがあり、「階上町はしかみちょう」も難読地名の一つです。

そのほかにもこの地域には難読地名が多くありますが、それらの中にはアイヌ語に由来するものも多くあります。
アイヌ語に由来する地名は北海道に多くありますが、福島県以北、東北地方全域にいくつも確認され、寺下観音・潮山神社のある階上町「赤保内あかぼない」もアイヌ語に由来する地名です。
青森県東部や岩手県北部には、平内ひらない小子内おこない相内あいない洞内ほらないなど、「~ナイ」という地名が多くありますが、そのほとんどがアイヌ語に由来しています。「ナイ」とはアイヌ語で「川」のことで、それらの場所にはほぼ間違いなく、現在も小さな川が流れています。