「はしかみ」地名考 /"Hashikami" place name considerations
青森県の最東端に位置する三戸郡階上町は、昭和55年(1980年)に三戸郡階上村を町に改めることで誕生しました。
町政移行前の階上村は、明治22年(1889年)の町村制施行に伴って、田代村、晴山沢村、平内村、鳥谷部村、金山澤村、赤保内
では、その階上岳は、なぜ「はしかみ」という名なのでしょうか。
青森県の最東端に位置する三戸郡階上町は、昭和55年(1980年)に三戸郡階上村を町に改めることで誕生しました。
町政移行前の階上村は、明治22年(1889年)の町村制施行に伴って、田代村、晴山沢村、平内村、鳥谷部村、金山澤村、赤保内
では、その階上岳は、なぜ「はしかみ」という名なのでしょうか。
かつて、現在の福島県、宮城県、岩手県、秋田県の一部、青森県の大部分は「陸奥国
常陸国風土記によると、白雉
現在の宮城県多賀城市には、奈良時代から平安時代にかけて、陸奥国府や鎮守府
多賀城が築かれたのは神亀
現在の寺下の地に、寺下観音の前身である應物寺が創建されたのが、神亀元年から5年をかけてのことと伝えられているので、同時期ということになります。
当時の東北地方のほとんどは蝦夷の地でした。
かつて、宮城県本吉
この階上村は、明治8年(1875年)の村落統合によって、波路上
なお、この「波路上」はもともと「波止上」であり、誤った字で伝えられたものです。
この階上郡は、続日本紀にも記述があります。
それによると、名取郡以南の14郡は山や海の僻地
征夷大将軍
蝦夷の阿弖流為
一度の征夷作戦が終わり、新たな領地を得ると、新たな郡が置かれることとなります。その時に6つの郡を一組として置く方法がとられました。次の征夷作戦が始まると、その新たな郡から出軍し、また新たな6郡が置かれると言うように、これを繰り返して領地拡大が行われました。
この新たに置かれた6つの郡を「奥六郡」と呼び、蝦夷成敗が進み、陸奥の国が北に拡大すると共に、奥六郡と呼ばれる場所も北に移動していきます。
奥六郡のうち、北端の郡には「かみ」または「はしかみ」の名を付けて、軍事基地の拠点としたものと考えられています。「はし」は北・北端を表し、「かみ」は行政府・最前線・根拠地
「はしかみ」は、「階上」のほかにも「端神」「科上」「波止上」「巴上」と表記されていることもありますが、そのほとんどが同じ意味だと考えられます。
まず、多賀城が創建(神亀元年(724年))されたのち、延暦
延暦21年(802年)、現在の岩手県奥州
さらに弘仁
東北地方の征夷開拓は弘仁4年(813年)の頃に終わったとされていますが、階上郡や階上山(階上岳)について記述のある文献などから、当時は岩手県北部から青森県の下北半島北端までの広大な範囲が階上郡だったと考えられます。
天保
青森県むつ市大畑
慶長
広大となった陸奥国は、明治期に陸奥
のちに初の平民
その中では、南部光行が賜
また、盛岡南部藩4代藩主の南部行信
これによって、征夷開拓が終了した鎌倉時代以降、階上郡と呼ばれていたこの地域は三戸郡と呼ばれるようになり、階上の名は階上岳にとどめることとなります。
そして、明治22年(1889年)の市町村制施行にあたり、それまでの周辺8村が合併して階上村が誕生し、昭和55年(1980年)には階上町と改められることとなるのです。
青森県には容易に読むことのできない難読地名が多数あります。
例えば、八戸・三戸地域に限っても「田面木
そのほかにもこの地域には難読地名が多くありますが、それらの中にはアイヌ語に由来するものも多くあります。
アイヌ語に由来する地名は北海道に多くありますが、福島県以北、東北地方全域にいくつも確認され、寺下観音・潮山神社のある階上町「赤保内
青森県東部や岩手県北部には、平内