寺下観音歴史資料館 /Terashita Kannon Museum
寺下観音歴史資料館では、寺下観音・潮山神社に関する資料や収蔵品を多数展示しております。
ここでは収蔵品の一部を紹介します。
寺下観音歴史資料館では、寺下観音・潮山神社に関する資料や収蔵品を多数展示しております。
ここでは収蔵品の一部を紹介します。
「大般若波羅蜜多経」、通称「大般若経」とは、皆さんよくご存知の「西遊記」に登場する唐の国(現在の中国)のお坊さん、三蔵法師こと玄奘三蔵(602年~664年)が16年の歳月を費やして天竺(インド)から唐の長安に持ち帰った、膨大な数の仏教の経典を翻訳し、600巻にまとめたものです。
現在耳にする「般若心経」は、この膨大な大般若経を要約したものと言われています。
青森県南部地域には、源義経(平治元年(1159年)~文治5年(1189年))にまつわる大般若経がいくつか残っています。
八戸市の小田八幡宮では義経の家来たち数人が書いたとされるものが約300巻、小中野諏訪明神にも弁慶(?~文治5年(1189年))が書いたと伝えられるものが23巻残っているそうです。
そのほかにも岩手県、福島県、東京都などに、そのような伝説が残っている場所が何ヶ所か確認されています。
階上町寺下にも弁慶自筆のものと伝えられている大般若経 1巻が保存されています。
幅約25センチメートル、長さ約13.3メートルの大きさで、最後に「大般若経五七六巻」と記されています。600巻ある大般若経のうちの576巻目ということでしょう。
昭和初期に、民俗学者・郷土史家の小井川潤次郞氏は「階上村寺下、もと應物寺の別当をした桑原氏、いま潮山神社というその門前の家に弁慶の経文というのが一巻ある。昔はこの経文の文字を一字かむと瘧(※熱病の一種)が落ちるといって飲んだものだと言って、先のところに切りとったあとがはっきり残っている。切った文字も紙に包んでしまっておいたものであった。」と、この経文のことを紹介しています。
小井川潤次郎(明治21年(1888年)~昭和49年(1974年))は青森県八戸市出身で、「おしらさま」「えんぶり」の研究や、「糠部三十三観音巡礼」に関する古文書の発見などにより、「北奥羽民俗学の巨星」「八戸史学の父」と評されています。
「應物寺」と書かれた扁額です。
寺下の地に應物寺があったことを示す、何よりの証拠でしょう。
僧・行基が寺下の地に應物寺を創建したのは、奈良時代の神亀元年(724年)から5年をかけてのことと伝えられています。その後、仁治3年(1242年)に落雷を原因とする山火事によって焼失し、寛元4年(1246年)に僧・江山によって再建されています。
寺下観音歴史資料館の収蔵品には、階上町指定有形文化財となっているものもいくつかあります。
八戸藩士・蛇口伴蔵胤年が水利開発事業を行うにあたり、寺下観音に収めた願文額(安政4年/1857年)。
八戸の書家、石橋竜渓の書と伝えられています。
天保5年(1834年)甲午春、2万人を超える農民が決起した際のもの。
「俳諧」とは、江戸時代に栄えた日本文学の形式・作品のことです。平安時代半ばに流行した、5・7・5の発句と7・7の脇句を交互に詠んで一つの歌にしていく「連歌」をもとに遊戯性を高める形で分岐したもので、5・7・5の俳句もこの流れとなります。
八戸に俳諧が伝わったのは、宝暦8年(1758年)、八戸藩士・船越三蔵(俳号:頴月堂棹佐)が八戸藩5代藩主・南部遠江守信興に貞徳流俳諧を伝授したことが最初と言われていますが、広まったのは八戸藩7代藩主・南部甲斐守信房が天明3年(1783年)に江戸屋敷において立机(選者の免許を取ること)して、五梅庵畔李の号を称してからとされます。新春や歳暮に盛大な句会を催すなど、俳諧を通じて各国の大名や商人、絵師などと交流し、やがて藩士、僧侶、修験、町人へと広まっていきました。
以後、八戸の俳諧は5つの系統に分けて続き、現在でもそのうち3系統、星霜庵・百丈軒・花月堂が継承されています。
浩然斎画 互扇句
文化8年(1811年)正月元日
弘化2年(1845年)
署名「南□」
嘉永元年(1848年)
嘉永2年(1849年)
制作者印「寛谷刀」
互扇楼大人高評
署名「森次」(雪山亭)
嘉永2年(1849年)
催主:常丸
署名「對山」(對山)
嘉永3年(1850年)
寺下観音歴史資料館の場所をご案内します。
青森県三戸郡階上町大字赤保内字寺下8