青森県三戸郡階上町赤保内寺下8
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桑原姓 /Kuwabara surname

桑原という姓は大和国やまとのくに葛下郡かつげぐん桑原郷くわばらごう(現在の奈良県御所ごせ柏原かしはら掖上わきがみ駅のあたり)、あるいは大和国葛上郡かつじょうぐん桑原郷(現在の奈良県御所市池之内朝町)に由来すると言われています。

渡来系民族 秦氏

「滋賀のなかの朝鮮/編・著 朴鐘鳴」より

公姓の桑原氏は、朝鮮半島からの技術者である漢人集団の在地統率者として、桑原村主の系統を引く渡来系民族。

桑原の姓は大和国葛上郡桑原郷(現御所市掖上)の地名に由来する。

「日本書紀巻14 雄略天皇」より

十五年、秦民、分散臣連等、各隨欲駈使、勿委秦造。由是秦造酒、甚以爲憂而仕於天皇。天皇愛寵之、詔聚秦民、賜於秦酒公。公、仍領率百八十種勝、奉獻庸調絹縑、充積朝庭、因賜姓曰禹豆麻佐。

十六年秋七月詔、宜桑國縣殖桑、又散遷秦民、使獻庸調。冬十月詔、聚漢部、定其伴造者、賜姓曰直。

日本書紀の雄略ゆうりゃく天皇の条には「16年7月、桑によろしき国県にみことのりして桑を植えさせ、はた民を散らし遷させ絹織を献上させた」との記述があります。
この秦氏とは、応神天皇14年(403年?)百済くだらから127県の民を率いて帰化した弓月君ゆみづきのきみしんの始皇帝の末裔と称する)の一族のことです。帰化した民は分散され、高位の豪族のもとで駈使されていて、それを嘆いた弓月君の孫である秦酒公はたのさけのきみが天皇に訴え、部族18,670人を率いて信濃国に移住したとされます。

この移住先が信濃国のどこであったかは不明ですが、更級さらしな郡桑原村(現在の長野県千曲市桑原)であったとする説が有力です。蚕の餌となる桑樹繁殖の好適地で、そこから桑原姓を賜ったものもあったと考えられます。

桑原安藤氏

保元物語ほうげんものがたりは保元元年(1156年)に起こった保元の乱を中心に、その前後の事情を描いた作者不詳の物語です。
その中の源氏の統領、源義朝みなもとのよしともに従って活躍する崇徳すとく上皇軍の武将、桑原安藤次くわばらのあんどうじと桑原安藤三あんどうみつの兄弟が文献上最古の桑原氏です。安藤という名乗りは信濃国の安曇野あずみの郡に土着した藤原氏の意と推定され、桓武天皇を祖とする大祝おおほうりの一族と考えられていて、上記の桑原村の出身という説もあります。

いつ作られたのかは不明ですが、現在の長野県諏訪市四賀桑原に諏訪氏の本拠地・上原城の支城として築かれた桑原城(別名・高鳥屋城/水晶城/矢竹城)がありました。天文11年(1542年)に武田信玄によって落城しましたが、保元の乱の頃に存在していたのであれば、ここが桑原兄弟の居城だったのかも知れません。
現在、桑原城趾は上原城跡と併せて長野県指定史跡「諏訪氏城跡」となっています。

また、平泉藤原氏討伐で功績を挙げ、文治5年(1189年)に奥州糠部五郡の地を賜り地頭職となった南部三郎光行の兄・小笠原長清(甲斐国の武将、応保2年(1162年)~仁治3年(1242年))の武将に赤沢氏があります。赤沢氏は現在の長野県長野市篠ノ井塩崎にあった塩崎城を本拠地としていて、その配下にも桑原氏の名があります。この桑原氏は塩崎城の支城・小坂城の城主であったと言うことです。

法然上人と桑原左衛門入道

「法然上人行状絵図 第三十七巻」より

武蔵國の御家人、桑原左衛門入道(不知實名)と申けるもの、上人の化導をつたへきゝて、吉水の御房へたずねまいりて、念佛往生の道をゝしへられたてまつりてのちは、但信稱名の行者となりにければ、歸國のおもひをやめ、祇園の西の大門の北のつら(※ほとり)に居をしめてつねに上人の禪室に參じて不審を決し、念佛をこたりなかりけるが、無始よりこのかた、常沒流轉(※迷いつづけていること)して、出離その期をしらぬ身の、忽に他力に乘じて往生をとげ、ながく生死のきづなをきらむ事ひとへにこれ上人御敎誡のゆへなりとて、報恩のために眞影をうつしとゞめたてまつりけり。そのこゝろざしを感じて、上人みづからこれを開眼したまふ。上人御往生の後は、ひとへに生身のおもひをなして、朝夕に歸依渇仰す。かの入道つゐに種々の奇瑞をあらはし、往生の素懷をとげにけり。年來同宿の尼、本國へかへりくだるとき、件の眞影を知恩院へ逘たてまつる。當時御影堂におはします木像これなり。


法然上人行状絵図 第三十七巻
桑原左衛門入道の住居が描かれている。姿形から、阿弥陀三尊の祀られている部屋の右上に描かれているのが桑原左衛門入道が作った法然上人像と思われる。

「当麻奥院略録記」より

抑当院本尊円光大師は、御在世四十八歳の御年、桑原左衛門尉深く念仏に帰依し、御影を作らん事を願ふ、其志をかんじ給ひ、自鏡に向ひ作らせたまひ四十八度開眼ありし尊像なり。依之四十八才鏡の御影と称し奉る。


円光大師法然上人坐像(重要文化財)

法然ほうねん上人しょうにん(長承2年(1133年)~建暦2年(1212年))は「南無阿弥陀仏」と唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、浄土宗の開祖と仰がれている僧侶です。
これらの文献に登場する武蔵国の御家人(貴族や身分の高いものに仕える家臣)であった桑原左衛門(一部文献では左右衛門)は、「源平合戦」とも通称される「治承じしょう寿永じゅえいの乱(治承4年(1180年)~元暦2年(1185年))」にも参加した武士だったそうです。武蔵国の桑原という地名には児玉郡桑原村(現在の埼玉県児玉郡美里町)がありますが、残念ながらこの時期のこの地域の文献・伝承に桑原左衛門の名前を確認することはできません。

桑原左衛門入道が作り、法然上人自らが開眼された「円光大師法然上人坐像」は、桑原左衛門入道が亡くなった後、知恩院に送られました。
応安おうあん3年(1370年)に浄土宗総本山である知恩院の第十二世誓阿せいあ普觀ふかん(永仁5年(1297年)~応安7年(1374年))によって、戦火によって失われるのを避けるために當麻寺<(たいまでら(奈良県葛城市當麻)の奥院(当初は往生院と称し、知恩院の奥の院とされ、近世以降は当麻奥院と称されます)に移されました。
法然上人の像はほかにも存在しますが、上人存命中につくられた木像はこれが唯一で、鎌倉時代の優れた肖像彫刻でもあることから、国の重要文化財に指定されています。

北条氏の御内人・桑原氏

「大日本地誌大系 新編武蔵國 風土記稿拾貳 兒玉郡之三 鉢形領」より

桑原村は庄名及江戸よりの行程等繐て前に同じ、按に【黒谷上人傅】に源空の弟子、武州(※武蔵国)桑原左衛門入道報恩の爲、吉水に於て眞影を寫し、上人其意を感じ、自ら開眼し賜う云々と載たり。
此桑原左衛門は當所の産にて、在名を名乗し人にや、もし然らんには最古き地名にして、當時左衛門が領せし所なるべし。東西六町、南北一町餘、西は沼上村、北は十條村、南は那賀郡駒衣村東も同郡古郡村なり。用水は隣村沼上よりの出水を引來れり。
民戸八軒、昔より戸田藤五郎の知行なりしに、子孫中務の時天明五年御料所となり、今も御代官支配す。

桑原氏は鎌倉幕府の執権職を世襲した北条ほうじょう(のちの戦国大名・北条氏(小田原北条氏)との混同を避けるため、鎌倉北条氏、執権北条氏と呼ばれることもあります)御内人みうちびと得宗被官とくそうひかん)としても名前が記録されています。
御内人とは執権北条氏の家督・得宗に仕えた武士、被官、従者のことで、多くは鎌倉幕府将軍の御家人の身分を持っていました。

吾妻鏡あづまかがみは鎌倉時代末期に成立した歴史書です。
それによると北条時宗ときむね(建長3年(1251年)~弘安7年(1284年))執権の頃の御内人に桑原平内盛時という名前が確認できます。下総しもうさ国葛飾郡桑原郷発祥の桓武平氏流であったとみられますが、桓武平氏流であるならば保元物語に登場する桑原安藤氏と同祖ということになります。

鎌倉時代後期の永仁えいにん3年(1295年)の「播磨大部荘申状案」の冒頭に、桑原左衛門尉 不知実名(※実名を知らないという意味)という名前が登場します。永仁7年(1299年)の「関東下知状案」には、桑原左衛門尉近忠という名前も登場していて、これは同一人物なのでしょう。

桑原高近たかちか(生年不詳~没年不詳)は鎌倉時代末期の武将で、桑原新左衛門尉と通称されました。
この人は元亨げんこう3年(1323年)に行われた北条貞時ほうじょうさだときの十三回忌供養を記録した「北条貞時十三年忌供養記」や、嘉暦かりゃく3年(1328年)の「御的日記」などにその名が出ていますが、官職と名前の「近」の字が共通しているので、桑原左衛門尉近忠の子(あるいは孫)と考えられます。桑原左衛門の子だから新左衛門と通称されたのかも知れません。
武蔵国児玉郡桑原村(現在の埼玉県児玉郡美里町)が、この歴代の桑原氏の領地だったと考えられます。

寺下の桑原家

「奥南諸家聞老遺言録」より

今寺下と云處、此處一圓に桑原郷と云。
右大臣橘豊成弟仲滿か爲に讒せられ、日向國に降りて三子あり、乙繩の裔族奥州へ下り桑原左衛門入道と稱す。智恩院十二世誓阿上人に相從ふて入道す。

廢帝(※淳仁天皇)の天平寳字八年江州(※近江国)に下り、後、奥州八戸階上郡近居に潜居す。故に桑原郷と云。
後ち海潮山應物寺、階上山靑龍寺建築有てより寺下と稱す。

天平勝宝てんぴょうしょうほう9年(757年)橘奈良麻呂たちばなのならまろ(養老7年(721年)?~天平勝宝9年(757年))藤原豊成ふじわらのとよなり(大宝4年(704年)~天平神護元年(766年))の弟、藤原仲麻呂なかまろ(仲麿、仲丸とも。慶雲3年(706年)~天平宝字8年(764年))を殺害して天皇の廃立を企てますが、密告によって未遂に終わりました(橘奈良麻呂の乱)。右大臣であった豊成も反乱に関与したとして左遷され、豊成の三男・藤原乙繩おとただ(生年不詳~天応元年(781年))も日向国に流されました。
その後の天平宝字てんぴょうほうじ8年(764年)、孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との間で対立が深まり、仲麻呂は再起を図って平城京を脱出しますが近江国で捕らえられ斬首されました(藤原仲麻呂の乱)。

この遺言録では、藤原乙繩の子孫で奥州に下ったのが寺下の桑原家の祖であるとし、かつてはその周辺を桑原郷と呼んだが、海潮山應物寺と階上山青竜寺ができてから寺下と呼ばれるようになったことを伝えています。

ここで登場する桑原左衛門入道は、法然上人の木造を作った桑原左衛門入道と同一人物と考えられています。しかし知恩院十二世の誓阿普観せいあふかん上人(永仁5年(1297年)~応安7年(1374年)は法然上人が亡くなってから生まれていますので、誓阿上人ととともに法然上人門下となったというのは、時代が合わずに矛盾します。

「法然聖語讀本」より

承安五年(※1175年)春三月、上人は「専修念佛」の確信に到達せらるると間もなく、黒谷を辭して町に下り西山の廣谷へ庵を構へて、新らしい信仰を鼓吹せられたが、東山吉水の邊に閑寂な土地があつたので、廣谷の草庵を移し、そこを本據として、訪ね來るものがあれば、懇ろに淨土の御法、念佛の信仰を話されるのであった。

故意にことさら宣傳せられた譯でもなかつたが、信仰的には渇き切つて居た時代的要求があつたので、云い傳へ聞き傳へて、恰も蟻の甘きにつくが如く大勢の人が集まつて來た。

諸派の碩學では當時第一の學者と云はれた實地房證眞法印、智德兼備と稱せられた嵯峨の正信房湛空、檀那流の學者薏光房永辦法印、清水寺勸進印藏沙彌、長樂寺の隆寛律師、辦才流るるが如しと云はれた安居院の聖覺法印、兼實公の弟である大增正慈鎭和尚、支度第一と云はれた東大寺大勸進職俊乗房重源、萩焼の法印と云はれた毘沙門堂の明禪法印、論義決擇第一と云はれた高野の明遍儈都等々を初めとして数へられない程の人があり、武士では甘糟黨の甘糟太郎忠綱、私黨の熊谷次郎直實、澁谷七郎道遍、鹽谷入道信生、諏訪右兵衛尉蓮佛、千葉六郎太夫胤賴、内藤五郎兵衛盛政、津戸三郎爲守、毛利入道西阿、桑原左右衛門入道、宇都宮彌三郎頼綱、その他薗田父子、大胡父子等々、公家では九條關白兼實、藤中納言隆信、花山院左大臣兼雅、大宮内府實宗、野宮左大臣公繼等々、その他陰陽師、盗賊、山伏、箔師、農夫、海人、別けても今まで宗敎的には顧みられなかつた女性の人々の集まつたことなどは、他の佛敎人には見られない光景であつたのである。

法然聖語読本では法然上人の吉水(現在の京都市東山区円山公園の一部)の草庵に訪れた人々の名前をいくつか羅列して、その中には桑原左右衛門入道の名もあります。左衛門ではなく左右衛門となっていますが、知恩院にある記録には法然上人像を作った人物として桑原左右衛門入道と書かれているものもあり、桑原左衛門入道と同一人物であることは間違いないでしょう。そして桑原左右衛門入道の名の直前には毛利入道西阿さいあという名があります。

この毛利入道西阿という人は源実朝みなもとのさねともに仕えた武士・毛利季光すえみつ(建仁2年(1202年)~宝治元年(1247年))のことで、相模国毛利荘(現在の神奈川県厚木市)を領していましたが、実朝の死後に出家して入道西阿を名乗りました。後の戦国武将・毛利元就もとなりらに繋がる、毛利家の祖です。

この毛利入道西阿に従って法然上人の元を訪れたものが、どこかで西阿(さいあ)と誓阿(せいあ)を取り違えて伝わったのではないでしょうか。そうであれば、双方とも鎌倉幕府の御家人ということになるので、関係は容易に繋がります。毛利入道西阿と桑原左衛門入道が法然上人の元を訪ねた時期ははっきりしませんが、法然上人が亡くなる直前であっても毛利入道西阿は10歳ほどですので、桑原左衛門入道が護衛や付き添いを兼ねて同道したということであれば、「相従いて」という言い回しも理解できます。

誓阿上人は桑原左衛門入道が作ったとされる法然上人像を、知恩院から當麻寺奥院に移しているので、それで混同されたのではないかと思われます。

澁澤(渋沢)敬三と桑原家


澁澤敬三氏

渋沢敬三は、渋沢栄一という実業家の孫にあたります。

渋沢栄一(天保11年(1840年)~昭和6年(1931年))は幕末から明治に活躍した武士・官僚・実業家で、数々の産業を興しました。日本の近代資本主義の父といわれる人で、渋沢財閥の創始者でもあります。令和6年(2024年)から発行されている一万円札の肖像にもなっています。
渋沢敬三(明治29年(1896年)~昭和38年(1963年))はこの人の孫として生まれました。

渋沢敬三は、渋沢栄一が明治6年(1873年)に創設した第一銀行(後の第一勧業銀行、現在のみずほ銀行の前身の一つ)の副頭取を務めたり、太平洋戦争時の日銀総裁や、敗戦直後の幣原しではら内閣で大蔵大臣を務めるなど、政財界で活躍した実業家です。
その一方で、柳田國男(明治8年(1875年)~昭和37年(1962年))との出会いから民俗学に傾倒し、民族学(エスノロジー)や民俗学(フォークロア)という学問の形成に多大な貢献も果たしました。

民族学や民俗学は、いわゆる一般庶民の暮らしを明らかにする学問ですが、それを進めるために渋沢敬三は「アチックミューゼアム」(屋根裏博物館の意)という研究所を設立しました。
アチックミューゼアムに収集された資料は、後に大阪府吹田市の国立民族学博物館の収蔵資料の母体となっています。

「階上町史通史編Ⅱ 小舟渡の章」には「昭和9年(※1934年)9月10日、澁澤子爵来校する。」とあり、その時に大家族制の調査のため、桑原家にも訪れています。
これらの調査は、満州・内蒙古・河北に移民団を送る満蒙開拓移民(満蒙開拓団)のための、地方の大家族の実態調査が主な目的だったようですが、「オシラサマ」信仰などについての調査記録も残っています。当時の桑原家には20人を超える同居人がいたそうです。
後に、その時に渋沢敬三によって撮影された記念の16ミリフィルムが発見され、渋沢記念館から桑原家にDVDで贈呈されています。